
1990年代半ば、トリップホップやブレイクビーツがUKのクラブシーンを席巻していた頃、Mo’ Wax というレーベルがあった。James Lavelle が主宰し、DJ Shadow『Endtroducing…..』やUNKLEの初期作などを世に送り出したことで知られるこのレーベルは、ヒップホップのサンプリング美学とヨーロッパの前衛的な電子音楽が交差する場所だった。
Andrea Parker の「Melodious Thunk」は、そんなMo’ Wax黄金期を象徴するシングルのひとつだ。1996年5月20日(UK)に12インチとCDで同時リリースされ、カタログ番号は MW040。この一枚は、のちの傑作アルバム『Kiss My Arp』(1998年UK、1999年日本盤)へとつながるサウンドの原点でもある。
謎めいたタイトル ― “Melodious Thunk” とは何か
まず目を引くのは、この奇妙なタイトル。
“Melodious Thunk” は、ジャズ界の巨人 Thelonious Monk(セロニアス・モンク) に由来する言葉だとされている。モンクの妻ネリーが、彼の独特な演奏スタイルを愛情を込めて “Melodious Thunk(旋律的なドスンという音)” と呼んだ──そんな逸話が音楽学者や作曲家の解説で繰り返し紹介されている。
パーカーがなぜこのフレーズをタイトルに選んだのかは公式には語られていないが、モンクのように型破りで自由なアプローチへの共鳴、あるいは“美しい衝撃音”を求める電子音楽家としてのユーモアが込められているのかもしれない。
サウンド ― 工業地帯を思わせる低音とポリリズムの迷宮
A面のタイトル曲「Melodious Thunk」は、当時のトリップホップ文脈からも外れた独自の質感を持っている。
重く沈むベースが空間を満たし、硬質なパーカッションがポリリズムを描き、そこにノイズまじりの電子音が不穏に漂う。一般的なダウンテンポのようにメロウではなく、もっと研ぎ澄まされた冷たさと実験精神がある。レビューでは「ローファイな打撃音」「工業的な質感」と表現されることが多いが、同時にどこか官能的な深みを湛えているのが特徴だ。
B面の「Atacama Giant」や「Melted Shoe」もまた、アンビエントともテクノとも言い切れない独特のバランスを持つ。アタカマ砂漠の地上絵を連想させるタイトル通り、「Atacama Giant」は広大で乾いたサウンドスケープを思わせるし、「Melted Shoe」には焦げ付いたゴムの匂いのようなインダストリアルな熱がある。
短い「Fallen Arches」は、EPの中で最もミニマルかつ抽象的な瞬間で、まるで音響実験のスケッチのよう。
このEPを支える重要な存在が、ベルギーの電子音楽家 David Morley だ。彼はエンジニアとして、また「Melodious Thunk」の共作者として深く関わっており、彼特有のアナログ・シンセや空間処理が作品に陰影を与えている。
アートワーク ― SheOne の抽象表現
Mo’ Wax の作品群といえば、音だけでなくジャケットのデザインもカルチャーの一部として語られる。
「Melodious Thunk」のカバーを手がけたのは、グラフィティや抽象表現の世界で知られる SheOne。赤と黒を大胆に使ったペインティングは、ノイズまじりのサウンドに呼応するかのように荒々しく、それでいて洗練されたミニマルさを持つ。
デザインは Ben Drury と Will Bankhead というMo’ Waxの常連デザイナーが担当し、当時のUKストリートカルチャーとクラブシーンの美学を体現している。
初期プレスの一部には、SheOne の手彩色スリーブやポラロイド付きの特殊仕様も存在し、コレクターズアイテムとして高値で取引されることもある。
作品データ
- タイトル:Melodious Thunk
- アーティスト:Andrea Parker
- レーベル:Mo’ Wax
- カタログ番号:MW040
- リリース日:1996年5月20日(UK)
- フォーマット:12インチ / CD
- プロデュース & アレンジ:Andrea Parker
共作:“Melodious Thunk” のみ David Morley 共作 - エンジニア/ミックス:David Morley
- マスタリング:Tim D.
- アートワーク:SheOne
- デザイン:Ben Drury、Will Bankhead
トラックリスト
- Melodious Thunk – 7:17
- Fallen Arches – 2:44
- Atacama Giant – 6:58
- Melted Shoe – 5:12
その後 ―『Kiss My Arp』への布石
Andrea Parker は1998年(日本盤は1999年)に1stアルバム『Kiss My Arp』を発表する。
「Melodious Thunk」はこのアルバムにも収録され、より広いリスナーに届くことになった。アルバム全体はクラシック音楽のストリングスを大胆に取り入れつつ、エレクトロとベースミュージックの冷ややかさを融合した異色作で、後年のエレクトロニカやIDM文脈からも再評価されている。
このシングルは、その実験性とサウンドデザインのセンスをすでに示していたという点で、Parkerのキャリアを理解する上で重要だ。
また、女性プロデューサーがまだ少なかった当時の電子音楽シーンで、Andrea Parker が独自の世界を切り開いていたことを知る手がかりにもなる。
Mo’ Waxと90年代の空気を閉じ込めた一枚
今、改めて「Melodious Thunk」を聴くと、90年代のUKクラブカルチャーの多層性が鮮やかに浮かび上がる。ヒップホップ的なビート文化を受け取りながら、ジャズの影響やアートシーンとの交わりを感じさせる点で、Mo’ Waxの精神を最も純粋な形で体現している作品のひとつといえるだろう。
Andrea Parker の音楽は、トリップホップの甘さを期待するリスナーには少し冷たく響くかもしれない。しかしその冷たさの奥には、抽象絵画のような美しさと、クラブカルチャーが持つ実験性への深い愛情が息づいている。
この作品は単なる“Mo’ Waxの1枚”ではなく、90年代UKの地下シーンが持っていた野心、そして電子音楽の未来を信じるアーティストの熱が封じ込められた、静かで激しい記録と思う。
ジャズからの影響をタイトルに忍ばせ、アートと音を接続した姿勢が鮮烈に響く。
「Melodious Thunk」は、サブカルチャーとアートの境界を軽やかに飛び越えた、90年代UKの隠れた名盤だ。