
1990年代後半、UKのクラブシーンはトリップホップやブレイクビーツが成熟期を迎え、より実験的な電子音楽が次々と生まれていた。その中心のひとつが Mo’ Wax。James Lavelle が主宰し、DJ Shadow『Endtroducing…..』やUNKLEの初期作品を送り出したこのレーベルは、ヒップホップのサンプリング美学とヨーロッパの先鋭的な電子音楽が交わる拠点だった。
Andrea Parker の「Rocking Chair」は、そのMo’ Wax美学をさらに深化させたシングルだ。1997年3月24日(UK)に12インチとCDで同時リリースされ、カタログ番号は MW060。前年のシングル「Melodious Thunk」(1996年、MW040)が築いた冷ややかなベースとポリリズムの世界を引き継ぎつつ、より音楽的な広がりと構築美を備えた作品になっている。
「Melodious Thunk」から「Rocking Chair」へ ― サウンドの深化と文脈
前作「Melodious Thunk」は、Mo’ Wax黄金期を象徴する漆黒のエレクトロニカだった。重低音とポリリズム、インダストリアルな質感を軸に、David Morleyのアナログ・シンセが陰影を与える構造的にミニマルなEPだった。
それから1年、Andrea Parker はサウンドをもう一歩前に進める。
「Rocking Chair」では、依然として沈み込むベースと冷たい空間処理を維持しつつ、クラシック音楽的な旋律と緊張感のあるストリングスをより大胆に取り込んでいる。モノクロームの工業地帯を思わせた「Melodious Thunk」から、よりシネマティックで知的な闇へと世界観を拡張した印象だ。
制作には引き続き David Morley が深く関わっており、彼の空間処理やアナログ・シンセは作品の骨格を支えている。Parker 自身が語るように、90年代半ばのUK電子音楽は男性中心のシーンだったが、彼女はそのなかで独自の音響美学を確立しようとしていた。「Rocking Chair」はまさにその探求の過程を記録したシングルといえる。
タイトル ― 揺り椅子が象徴する安らぎと不穏のあわい
“Rocking Chair” は直訳すれば揺り椅子。リラックスを連想させる言葉だが、この曲の世界はむしろ不安定だ。クラシック的な旋律がかすかに揺れ、ベースの重さとノイズが眠りをかき乱す。
タイトルには「安らぎの裏に潜む不安定さ」や「ゆらぎの快楽と恐れ」といった二重のイメージが重なっているように思える。
パーカーはタイトルの意図を公式には語っていないが、その両義性は彼女のサウンドそのものを象徴している。美しくも冷たい、官能的でありながら理知的なバランスがここにある。
サウンド ― ストリングスとベースが交錯する漆黒の音響空間
A面のタイトル曲「Rocking Chair」は、Andrea Parker の方向転換を示す代表曲だ。
ヒップホップのブレイクビーツを下敷きにしたドラムに、ストリングスの緊張感ある旋律が絡む。重く沈むベースとノイズ混じりの電子音は「Melodious Thunk」を思わせるが、ここではより整理された構造とメロディックな展開が加わっている。
B面には「Unconnected」など抽象度の高い実験トラック、さらに Ifach レーベル勢によるリミックスが収録され、クラブカルチャーの中でこの音をどう再解釈できるかという試みが垣間見える。
Morley の深いリバーブとアナログシンセの重層感が、パーカーのストリングスと交差し、冷たい知性を帯びたサウンドスケープを作り上げている。
アートワーク ― SheOne とMo’ Waxデザイン陣の手仕事
ジャケットは前作に続き SheOne が手がけた抽象表現。黒をベースに赤や白のストロークが重なり、音のうねりと揺らぎを視覚化する。デザインは Ben Drury と Will Bankhead が担当し、UKストリートカルチャーの美学を反映している。
初期プレスの一部には特殊仕様のスリーブやポラロイド写真が付属する限定盤があり、コレクターズアイテムとして人気を集めている。
作品データ
- タイトル:Rocking Chair
- アーティスト:Andrea Parker
- レーベル:Mo’ Wax
- カタログ番号:MW060
- リリース日:1997年3月24日(UK)
- フォーマット:12インチ / CD
- プロデュース & アレンジ:Andrea Parker
共作:David Morley(一部トラック) - エンジニア/ミックス:David Morley
- マスタリング:Tim D.
- アートワーク:SheOne
- デザイン:Ben Drury、Will Bankhead
トラックリスト
- Rocking Chair – 6:52
- Unconnected – 5:10
- Rocking Chair (Ifach Mix) – 7:20
- Rocking Chair (Another Room Mix) – 6:05
『Kiss My Arp』への直結 ― 自身の世界を完成させる前夜
「Rocking Chair」は、翌年発表される Andrea Parker の1stアルバム『Kiss My Arp』への核心的な布石だ。前作「Melodious Thunk」が提示した実験精神を維持しつつ、よりクラシカルでシネマティックな響きを得たこのシングルは、アルバムの方向性を先取りしている。
当時、女性プロデューサーはまだ数少なく、Andrea Parker は自分自身の音を模索し続けていた。「Rocking Chair」は、その模索の過程を濃縮した一枚であり、Mo’ Waxのサウンドアート志向とも深く共鳴する。
Mo’ Waxと90年代UKの記録
改めて聴くと「Rocking Chair」は、90年代後半のUKクラブカルチャーがいかに多層的で挑戦的だったかを伝えてくれる。
ヒップホップ的なビート文化を受け継ぎつつ、アートやクラシックの影響を織り込み、電子音楽を未知の領域へ押し広げていたMo’ Wax。その中でAndrea Parker は、冷たさと美を併せ持つ独自の音世界を確立していった。
「Melodious Thunk」から「Rocking Chair」への進化は、単なるサウンドの変化以上の意味を持つ。
それは、当時まだ男性優位だったエレクトロニカの中で、自らの美学を鋭く磨き上げていった一人のアーティストの記録でもある。